1980年代後半に日本テレビの「TVムック」で「ガリバー旅行記のガリバーは
意外な人物!」が放送された。俳優の児玉清さんがガリバー旅行記のガリ
バーのモデルを追って、アイルランドの首都ダブリン、英国の首都ロンドンそし
て京都を訪ねた。ガリバー旅行記でガリバーが旅した架空の国々の中で日本
だけが唯一実在の国で踏絵のことなども書かれている。ガリバー旅行記の作
者であるジョナサン・スウィフトの故郷・ダブリンでは物語の背景を探った。ロン
ドンにある大英博物館では、スウィフトの蔵書リストにある「パーチェスの巡礼」
にウイリアム・アダムズ(三浦按針)の手紙が収録されていることを発見した。
京都の同志社大学の北垣宗治教授は、ガリバーは出島のオランダ商館に来たケンペル医師や三浦按針など日本
を体験した西欧人の合成されたイメージと指摘する。だが、三浦按針という船乗りの波乱に富んだ生涯がなかった
ら、「ガリバー旅行記」という名作も生まれてこなかったのではないだろうかと結ばれている。
1988年(昭和63年)千葉の時田八千代さんにお会いして新たな展開を迎えた。「ガリバーが
上陸した日本のザモスキ(Xamoschi)は観音崎だと思います」との言葉がその後に横須賀から
ガリバー上陸を発信することにつながった。三浦按針は、徳川家康から逸見(横須賀市)に25
0石の領地を与えられた。浦賀にも「按針屋敷」と呼ばれるところがある。カトリックの牧師がプ
ロテスタントのアダムズ(三浦按針)を改宗させるため、奇跡を起こそうとした。浦賀の海の上を
歩いてみせるというもので、3千人の民衆が見物に集まったとの記録がある。按針は、海外貿
易を望む家康のため、2隻の洋式帆船を伊豆の伊東で建造している。この船で東京湾(江戸
湾)を測量した海図を添付したことが英国に送られた按針の手紙に書かれている。浦賀にほど
近い観音崎は東京湾航行の難所で、幕末のペリー来航により開国して最初に洋式灯台が建設
されたことでも知られている。按針は、水先案内人という意味でもあり、彼は海の難所である観
音崎を見過ごすことはなかった。ガリバー旅行記の作者・スウィフトは按針の手紙をヒントにガリバーを日本のザモ
スキ(Xamoschi)に上陸させたと思われる。ザモスキの場所の説明やつづりの酷似からここは観音崎(Kannonsaki)
だと推察される。ガリバーのモデルは三浦按針(ウイリアム・アダムズ)だったのではないでしょうか。